Mark John Winchester
マーク・ウィンチェスター
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C.R.A.C. North 小林よしのりへの公開質問状
An Open Letter to Kobayashi Yoshinori: 
C.R.A.C. tumblr URL

(有)よしりん企画
   小林よしのり様
   切通理作様
   時浦兼様





2015年7月7日
マーク・ウィンチェスター
Counter-Racist Action Collective (North)
メール・アドレス=markjw@crac.jp

質問

次の事項を公開にて質問します。明確な回答を9月7日までに文書で求めます。

一、現在も小林よしのり氏および切通理作氏、時浦兼氏は、昨年8月11日の金子快之(やすゆき)元札幌市議会議員の発言「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行使しまくっているこの不合理。納税者に説明できません。」はヘイトスピーチではないというお立場で変わりないでしょうか。そうであるならば、理由をお答えください。

二、私、C.R.A.C.NORTH、そしてSAPPORO AGAINST RACISMは、「アイヌ民族はいるかいないか」という問い自体を即、法律的・社会的に容認できないレベルのヘイトスピーチであると主張したことはありません。 「アイヌ民族はいるかいないか」は素朴なレベルの疑問としてありえますし、また「アイヌは民族か否か」ということも、以前は学術的な問いでした。さらに、関連政策の議論の際に、アイヌ民族の範囲について問うことはありえるでしょう。 しかし、金子氏の「アイヌ民族なんて、いまはもういない」という発言がアイヌの民族性のみならず、アイヌの人としての存在否定を含んでいるものである以上、現に自分自身がアイヌ民族であると考えている人びとを前にして、執拗に民族の定義を問いつづけることは、ネット右翼のアイヌに対する典型的な嫌がらせとして成立してしまっています。 したがって小林よしのり氏とよしりん企画が、マンガやブログ、Twitterで、なおアイヌ民族の存在を問い続けるのであれば、それは現状ではアイヌに対する嫌がらせであり、場合によってはヘイトスピーチであるとの疑いをもたざるを得ないと考えますが、いかがでしょうか。

以上

質問の背景


1)経緯

 金子快之(やすゆき)元札幌市議会議員は2014年8月11日に自身のTwitterで「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行使しまくっているこの不合理。納税者に説明できません」と発言したことが広く新聞等で報道され、社会問題化されました。SAPPORO AGAINST RACISM[1]は、この発言をヘイトスピーチであるとし、金子氏の議員辞職を求めるネット署名を集め、賛同は最終的に1万5千筆を超えました。金子氏は所属していた自民党会派より撤回・謝罪を求められましたが、いずれも拒否し、9月9日に除名されました。さらに、9月22日に札幌市議会にて辞職を勧告されましたが、それに従いませんでした。2015年4月12日投票の札幌市議会選挙に、東区より無所属で立候補しましたが、金子氏の一連の行動に対して有権者の支持が得られず、落選しました。

2)小林よしのり氏の発言

 小林よしのり氏は、金子氏の発言に対し、2014年9月2日のご自身のブログで「『アイヌ民族は出て行け』とか、『汚いアイヌめ』とか、差別的な罵詈雑言を浴びせればヘイトスピーチだろうが、アイヌがいるかいないかは議論の問題である。ヘイトスピーチとは何の関係もない。」と書いています。さらに、「『アイヌ民族なんて、いまはもういない』というのは学術上も証明されている事実である」と述べています[2]。したがって、少なくとも2014年9月2日においては、金子氏の発言をヘイトスピーチとみなさないという立場であったと判断することができます。その後、切通理作氏は2015年5月15日のブログで小林氏の見解に「基本的に同意します」と述べています[3]。

 私は、小林氏が『差別論スペシャル』などの作品で述べてきたように、差別はよくないと主張していることは理解していますし、在日特権を否定し、在日特権を許さない市民の会(通称「在特会」)の不支持を表明したことを歓迎しています。なお、小林氏は金子氏のホームページを見て、「『札幌市は韓国・大田市との姉妹都市連携を破棄し、一切の交流を止めるべき』とか、集団的自衛権行使に賛成した上で『(反対派は)よほど日本を中国に売り渡したいのでしょうか』とか、オスプレイ歓迎とか、海外への原発輸出賛成とか、安倍首相の靖国参拝を支持し、『失望した』と言ったアメリカに失望したとか、とにかく見事なほど自称保守の紋切り主張がワンセット揃っている」「金子議員個人には全然共感を感じない」ということで、彼のその他の主張に対しては不支持を表明していることも知っています[4]。しかし、金子氏のアイヌに関する発言をうっかり支持してしまったのは、小林氏の差別反対のロジックに、ある限界があったからだと私は考えます。

3)法律に基づくヘイトスピーチの定義

 金子氏の発言はヘイトスピーチに該当することが問題とされましたが、ご存知のように、ヘイトスピーチという言葉は、東京や大阪などで主に在日コリアンを対象とする差別・排外デモが報道されるようになって脚光を浴びました。ヘイトスピーチとは、単なる「罵詈雑言」ではありません。ヘイトスピーチとは、広義では、人種、民族、国籍、性などの属性を有する、その属性を理由とする差別的表現であり、その中核にある本質的な部分は、マイノリティに対する「差別、敵意又は暴力の煽動」(自由権規約二〇条二項)、「差別のあらゆる煽動」(人種差別撤廃条約四条)であり、表現による暴力、攻撃、迫害です[5]。このように、ヘイトスピーチは国際法に基づいています。

 また京都地裁判決では、在特会らが、京都朝鮮学校に対し、隣接する公園を違法に校庭として占拠していたことへの抗議という名目で、3回にわたり威圧的な態様で侮蔑的な発言を伴う示威活動を行い、その映像をインターネットを通じて公開したことに対し、原告の教育事業を妨害し、原告の名誉を毀損する不法行為に該当し、かつ、人種差別撤廃条約上の人種差別に該当するとしました。判決には、ヘイトスピーチは、平等の理念を否定し、少数集団に対する憎悪を煽り立て、少数集団に属する人々の自尊心や民族的自我を傷付け、少数集団に対する深刻な被害をもたらすものであるとあります(平成22年(ワ)2655 街頭宣伝差し止め請求事件 京都地方裁判所)。

4)マジョリティとマイノリティの非対称性とヘイトスピーチ

 3で述べたように、ヘイトスピーチは、マジョリティとマイノリティの非対称性を利用して行われます。したがってヘイトスピーチとは差別を煽動するような発言・表現内容のことであって、その乱暴さは関係がありません。同等の社会的地位にある者同士の罵倒は不快表現/ケンカ言葉ですが、ヘイトスピーチではありません。また例えば朝鮮人と日本人が「バカ」と言い合っていてもヘイトスピーチではありません。日本人が在日コリアンに対して「朝鮮人だからバカだ」とマジョリティであることを笠に着るとヘイトスピーチと云えます。

 また、「差別用語」の有無も無関係です。さらにていねいな言葉を使ってもヘイトスピーチということはありえます。在日が生まれてもいない国に丁寧に「お帰り下さい」と言われるのもヘイトスピーチです。表現全体の意味が大事なのです。

 加えて、現在の日本では、マンガ家に対するヘイトスピーチは成立しないと考えます。2015年1月28日、私はTwitter上で時浦氏のアカウントに対して「CartOOnist eh? Taking the piss, that’s your life?」「So you draw cartoons heh?」とツイートしました。大変失礼な発言で、申しわけありませんでした。しかしこれは非常に柄は悪いですが、普通の罵倒と云えます。マンガ家は職業ですが、例えば石を投げられるなどして迫害されているわけではありません。日本では比較的地位が高く、現在では日本を代表するサブカルチャーと云えます[6]。

5)金子氏の発言はヘイトスピーチである

 金子氏の「アイヌ民族なんて、いまはもういない」という言葉は、自らを「アイヌ民族」として自認している人々に対して、その自尊心や民族的自我を傷つける差別表現であるとともに、日本国におけるアイヌ差別及び差別に対する抵抗の歴史を蔑ろにするものであり、社会の公正さを毀損するものでもあります。ある民族に対して「帰れ」「出て行け」「良い○○も悪い○○もぶち殺せ」「汚い○○」だけが差別的表現ではありません。ある民族が存在している(6~8を参照)にもかかわらず「もういない」と言うことも差別になります。

 さらに、「利権を行使しまくっているこの不合理」という文章は、アイヌ民族が不当な利権を享受しているという意味となります。どのような集団においてもごく少数の犯罪者や不正行為が発生してしまうのは言うまでもありませんが、この文章は、そのような不正を行う個人の問題を、アイヌ民族全体の資質としてとらえる、まさに民族差別が典型的に現れた差別表現です。

 大嶋薫札幌市議会議員は金子氏への議員辞職勧告決議の提案理由において「差別の再生産をやめようと言いながら、アイヌ民族に対する憎悪や差別を煽動しているのは、金子議員自身」であると説明しました。ヘイトスピーチが憎悪表現、あるいはより的確には差別煽動表現と訳されるとおり、これは実質的に札幌市議会が、金子氏の一連の発言をヘイトスピーチであると指摘しているものといえます[7]。さらにこれまで札幌市議会で可決された議員辞職勧告決議は刑事事件の立件を理由としたもののみであり、金子氏の発言がこれらと同等の重みを持って受けとめられたとみなすことができます。

 このように金子氏の発言は、刑事罰に処されたり民法上の不法行為に該当するものであるかは不明だけれども[8]、議員辞職勧告決議から落選までの一連の動きは、人種差別撤廃条約を議会と市民が適用したものと云えます。

 なお、私は政治組織と見なしうるものへの批判は原則ヘイトスピーチではないという立場です。ただし、不適切な状況・文脈において発せられた場合はヘイトになり得ます。したがって、公益社団法人・北海道アイヌ協会への批判は、原則ヘイトスピーチではありません。「アイヌ民族なんて、もういない」などと言わなくても、批判は可能です。

6)和人と異なる出発点に立っているアイヌ

 私がアイヌは民族であるという場合、自らをアイヌではない、和人である、アイヌ系であると自認する人びとを否定しているわけではありません。アイヌは、和人として生きるにしても、アイヌ民族というアイデンティティを選択するにしても、または小林氏が訴えているようにアイヌ系の人間として生きるとしても[9]、曾祖父母の写真やアイヌ語の名前、または祖先の改製原戸籍に記された「土人」「旧土人」の文字から、その他の日本人(和人)と違う歴史が自分たちに流れていることを意識します。これは、本人がどうすることもできない、その他の日本人(和人)との取り除けない差異なのです。つまり、この人たちはこの事実への対処のしかたを自分なりに見つける必要があるという点で、すでに他の人々とは異なる出発点に立っていると云えます。

 これは、「アイヌであるか否か」が、ということを意味しています。常に他者(和人や、本人以外のアイヌ)との関係の中に置かれ、先祖にアイヌがいる以上、差別的なものを含め、周囲の意図によって、「本人はアイヌじゃないと言っているが本当はアイヌだ」といった定義づけをされる可能性を消すことはできません。だから対処のしかたを自分なりに見つける必要があるのです。

 なお、ご存知のように、アイヌ民族だというアイデンティティを持つことと北海道アイヌ協会の会員になることは違います。しかし、同じように歴史的な背景があります。北海道アイヌ協会の正会員になるための基準である「アイヌの血を引く者またはアイヌの血を引かないがアイヌの血を引く者の配偶者若しくはアイヌ家庭で養育された一代限りの者」と、法人の目的である「先住民族アイヌの尊厳を確立するため、人種、民族に基づくあらゆる障壁を克服し、その社会的地位の向上と文化の保存・伝承及び発展に寄与する」[10]ことに賛同した者というのは、強いて言えば、明治国家の対アイヌ政策にその起源を持っています。

 北海道旧土人保護法(1899年制定)の対象となるアイヌの区別の問題について、当時の政府は「『家系』や婚姻等における基準を示しはしたものの、最終的な判断としては『誰人モ土人ト認ムヘキモノ』『何人カ見ルモ旧土人ト認ムヘキモノ』という程度の基準を設定した」のです。アイヌをこのように区別することに踏み切ったのは、日本国政府であり、日本国政府がその現実を押し付けたのです。こうしてアイヌは、北海道旧土人保護法の対象とされた歴史があり、それゆえの経済的困難と差別をそのように区別された人々として現在も負っています。

 このような歴史を前にして、静的な定義で民族を分類するという行為は、生身の人間の日常の営みから永遠にかけ離れた行為であり、実は民族についてのもっとも堅苦しく時代遅れの近代主義的な考え方を提唱していることになります。

7)熊襲が民族ではなくてアイヌが民族である理由

 小林氏は漫画および対談において、自分は福岡県の出身だと述べ、日本国民は多種多様なバックグラウンドを持つ人々から構成されているということを強調しています。たとえば、「わしという人間は、実は熊襲の子孫かもしれず、隼人の子孫かもしれず、朝鮮からの渡来系かもしれない。わしの血筋は『和人』や『大和民族』という純粋種ではなく雑種である。わしは単なる日本国籍を持つ日本国民だとしか思っていない」と漫画で書きました[11]。また、香山リカ氏との対談の中で、小林氏は「わしはそもそも民族主義というものが嫌いなのね。それを言い始めたら「わしは熊襲じゃない?」とか「いや、隼人じゃない?」「朝鮮系かもしれない」とかキリがない。でもそれは今、全部和人に包摂されているわけでしょ?何で括るかといったら『国民』しかないのよ。それなのに『自分は和人ではない、アイヌ民族だ』と言うからには、何をもってそう言うのか?もはや姿も違う、風習も違う、アイヌ語もしゃべれないのに。」と発言しました[12]。

 まず、「和人」という言葉ですが、これは「明確な初出は寛政一一(一七九九)年〔中略〕アイヌ人たちの『同化』政策的発想が政策レベルに登場する時点で使用され」たもので、「到達目標として和人が位置づけられている」と言われています[13]。和人という言葉はそもそも対アイヌ政策および対アイヌという意識そのものから生まれたのであり、それを「純粋種」として考える必要はありません。「和人」「大和民族」、あるいはいち早く『新羅之記録』(1648年)に「者謀」として登場する「シャモ」という言葉が使用されるのは、異民族扱いをされてきたアイヌに対して、非アイヌ日本人の主体的な姿勢が依然として脆弱であるという理由からだとも主張されます[14]。

 同様に「アイヌ民族」は「純粋種」として捉える必要もありません。ご存知のように、近世・近代以前からサルンクルとか、トカプチウンクルとか、スムンクルとか、メナスンクルとか、もっと大きく言えばヤウンクル(陸にいる人)やレプンクル(沖にいる人)というふうに、アイヌ自身の居住地域に基づく区分名称はいろいろありました。また、古代東北から北海道地域を対象に、ヤマト王権から見たエミシからエゾへの認識転換とアイヌとの関係について、文献史学と考古学との重複した膨大な研究蓄積が存在しています[15]。にもかかわらず、熊襲や隼人などという古事記や日本書記に登場する九州南部の地名またはそこに居住していた人々がアイヌと同じように民族とみなさない理由は、彼らはアイヌと同じように、または小林氏ご自身が指摘しているように、近世・近代においてマジョリティによって「異民族として徹底して差別し隔離」[16]されてきてこなかったからです。先ほど述べたように、『誰人モ土人ト認ムヘキモノ』『何人カ見ルモ旧土人ト認ムヘキモノ』といったような区分によって、熊襲や隼人は北海道旧土人保護法のような法律の対象とされた歴史がありませんし、それゆえの経済的困難と差別をそのように区別された人々として現在も負っていません。アイヌの多くは日本国民です。しかし、入植植民地化による人口の激増とそれに伴った土地開拓を耐え、アイヌということを理由に経済的困難と差別を受けてきた日本国民です。

8)政治的な概念である民族

 小林氏は、漫画において「現在の『アイヌ文化』『アイヌ民族』は、政治的意図によってかなり人為的に作られている」と書いています[17]。これはある意味では正しいと云えます。なぜ正しいのかというのはまた、小林氏ご自身が「大和民族」の意識について述べている通りに、「『民族』はイデオロギー統合のための精神的・政治的な言葉」だからです[18]。私の師匠のリチャード・シドルも、民族を政治的な概念としています。つまり、民族的なアイデンティティを本質的なもの、静的なもの、何かの原始的な遠い過去から流れてきた残滓のようなものとして見るのではなく、ある特定の歴史的かつ物質的な力関係の状況下で接合され、または社会的に構築されるものと捉えています。「アイヌ民族」という意識は、先ほど述べてきた近世から近代にいたる歴史の中で生まれました。また、現在では、先住民族の政治によっても影響されています。シドル氏はその歴史を次のように纏めています。

あたらしいアイヌの政治においておそらく最も重要な発展は、政治行動にそったアイヌアイデンティティの動員であった。もちろんこれは、完全にあたらしい現象ではなく、そのルーツは戦前のアイヌの運動にまでさかのぼることができる。多くのアイヌは、和人が原始的であるとして彼らの伝統を貶めようとしたにもかかわらず、それに心からの誇りを保ちつづけた。たとえば同化を促したアイヌ協会の指導者たちの書いたもののなかでさえ、その誇りをみることができる。さらに、「先住民族」としてのアイヌの観念は、1920年代の違星北斗やその他の人々の書いたもののなかにはっきりと予期されている。では何があたらしいかといえば、あたらしい政治的課題のために活動家がアイヌアイデンティティの象徴を操作することである。これはアイヌ自身の生活を管理する手段と社会資源のより大きなシェアの両方を取り戻すことを目的としている。このためにアイヌの活動家は、属する「人種的」カテゴリー化をくつがえした。以前は想定された遺伝的「人種的」劣位に基づいて従属され、それは後進文化に反映されたが、アイヌの活動家は今やこれらの文化と血統のおなじカテゴリーを肯定的な同一化とエンパワーメントの手段に変えた。政治的目的のために「アイヌであること」を行使することは、さまざまな形で機能した。第一に、アイヌの無力さの克服の試みにおいて、それは共同体の感覚をつくりだし、階級とジェンダー、あるいは世代によって異なる関心と不一致を克服させるかもしれず、国家との交渉に際して統一戦線を形づくることを可能にした。第二に、異なる意見として、それはすべてのアイヌをマジョリティ社会に完全に吸収することをつうじて最終的な「アイヌ問題」の消滅を目的とする同化政策を変えた。最後に、他国での先住民族運動の出現に一体化することをつうじて、アイヌであることの政治は、アイヌと国家の関係性を異なる権利を持つ文化的歴史的に固有の集団として、再定義する試みを表した。先住民族としてのアイヌは、社会福祉を必要とする別の不利な社会集団というだけでなく、非植民地化を望む「ネーション」でもある[19]。

 かかる意味で、民族を定義分類し、よそ者にしようと試みる権力こそが民族問題を起こすそもそもの原因となります。ある特定の時代状況において、人々は血、文化、宗教、出身などという規準で社会的にまたは政治的に一定の不公平の立場に分類され、そこに釘付けされてしまいます。そうして、人間の集団は「人種」または「民族」として社会的に構築されます。一方で、そのような社会的認知を受けた人種間または民族間のヒエラルキーは、それぞれの社会で劣位の人種や民族とされた人々の抵抗を呼び覚ますこととなります。「ニグロ」と呼ばれていたアメリカの黒人が自分たちを「ブラック」や「アフリカン・アメリカン」と主張するようになった歴史的経緯があるのと同じように、「土人」「旧土人」と呼ばれていたアイヌが自分たちのことを「アイヌ民族」と主張するようになった歴史的経緯があります。

9)和人至上主義

 小林氏は香山氏との対談の中で「アイヌ民族がいるならば『誇りあるアイヌ』として、国民の中で容認していく方法を考えようと思って、アイヌ協会に取材を依頼したんだ」と発言しました[20]。しかし、何故アイヌ民族は誰かに容認されなければいけないのでしょうか。そもそも同じ国民にもかかわらず、それは「和人至上主義」ではないでしょうか。小林氏が日本国民であるアイヌに向かって「わざわざアイヌ民族と言わないで、『アイヌ系の人間です』って言えばいいんじゃない」[21]と言えるのは、あたかも自分が「国全体に責任を持つ本来的な国民主体」であり、「異質な非本来的な人々」を保護し、容認する寛容な主体であるという空想を生きているからではないでしょうか。アイヌを国民として迎え入れることができると、その能力が自分にはあると思い込んでしまっているその時点で、小林氏はアイヌを排除しながら、同時に差別によって不平等にさらされた人々の統合を促す「健全な責任感を持った国民主義者」の役割を演じています。

 これは実は白人至上主義と同じ構造であり、その裏表にあるのは国民間の平等への希求という普遍主義であるマイノリティの「特権」の否定や「日本人差別をなくせ」という構造的不平等を否認するネトウヨ言説の典型です。近代以降、アイヌを排除したいと願った人だけでなく、条件付きで歓迎しようとする人でさえも、実はアイヌを受動的なものにして排除しています。小林氏は「お前ら日本人だからアイヌ系日本人でいいんだろう」と言う特権が自分にあると思いこんでいる。これが小林氏の差別反対のロジックの持つ限界です。

10)ヘイトな議論はありえる

 最後に述べておきますが、以上の公開質問は小林氏のアイヌをめぐる自由な言論を封殺するものではありません。2015年1月28日のご自身のブログで小林氏は「議論とヘイトスピーチは違う。議論すること自体がヘイトスピーチだと封殺するのは、議論されたらまずいことが発覚する恐れからだろう。」と書きました[22]。確かに、タブーをもうけて議論ができなくなるのはよくありません。しかし、「議論とヘイトスピーチは違う」は間違っています。議論とヘイトスピーチは二者択一ではなく、同時に成立しえます。議論として行われるヘイトスピーチや差別は当然ありえます。そして、議論として行われた発言がヘイトスピーチまたは差別であるという評価を受けることも当然にあります。「その発言はヘイトスピーチだ」と評価することもまた議論のうちです。ということは、「ヘイトスピーチではないか」という疑いそのものが言論封殺であると言ってしまう場合こそ、議論ができなくなります。ヘイトスピーチまたは差別だという評価を受けた場合にそうではないと主張したければ、なぜそうではないかという理由を述べなければなりません。議論だからヘイトスピーチや差別ではないという言い方は何の根拠にもならず、それこそ議論を無効化してしまいます[23]。

11)行き過ぎた「タブーなき言論」がファシズムを醸成する

 在特会のような行動する保守は、戦後認められてきた「言論の自由」を逆手にとって、ヘイトスピーチをしています。「言論の自由」を推し進めることによって、却って自由で抑圧のない社会の実現を妨げているのが現状です。小林氏は、自分の主張に反論されることを「言論封殺」でファシズムであると言いますが、ファシズムが民族的マイノリティの差別・抑圧・抹殺を意味するのであれば、行き過ぎた「タブーなき言論」こそが、ファシズムを醸成しているのではないでしょうか。


脚注
[1] SAPPORO AGAINST RACISMは在日特権を許さない市民の会(通称「在特会」)などの「行動する保守」と呼ばれる諸団体による道内でのヘイトスピーチ・デモに対し、カウンターといわれる路上での抗議行動をおこなってきたメンバーと、C.R.A.C.(Counter-Racist Action Collective)、とくにC.R.A.C.NORTHで構成されています
[2] http://bit.ly/1HxNyOR
[3] http://bit.ly/1FXct9l
[4] http://bit.ly/1gdx5VA
[5] 師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』岩波新書、2013年、p.48
[6] 20150202のりこえねっとTV「ヘイトスピーチとは何か」野間易通(C.R.A.C.)を参照。https://www.youtube.com/watch?v=0AKnGkY1nCs
[7] 切通氏は5月15日のブログでSAPPORO AGAINST RACISMが決議案にヘイトスピーチという言葉を使ってほしいと要望しているのを、あたかも金子氏の発言がヘイトスピーチだと議会で決議されたわけではない証拠として扱っています。大嶋議員が事前にS.A.R.より要望されており、以上のように提案説明をしたことは、議会が金子氏の発言をヘイトスピーチであると認めたことを裏づけるものであるといえます。
[8] 京都地裁判決では、学校の前で特定個人をめがけてスピーチをしたということが問題になりました。
[9]「『アイヌ系の人間です』と言えばいいんじゃない」(香山リカ・小林よしのり『対決対談!「アイヌ論争」とヘイトスピーチ』創出版、2015年、p.61
[10] 公益社団法人・北海道アイヌ協会定款:http://bit.ly/1LGRC0K
[11] 小林よしのり「ゴーマニズム宣言extra 日本国民としてのアイヌ」『わしズム』Vol. 28、小学館、2008年、p.14。
[12] 香山リカ・小林よしのり『対決対談!「アイヌ論争」とヘイトスピーチ』創出版、2015年、p.17。
[13] 海保嶺夫「和人地権力の形成:渡党の性格をめぐって」加藤・北島・深谷『幕藩制国家と異域・異国』校倉書房、1989年、p.49以下。小川正人『近代アイヌ教育制度史研究』北海道大学図書刊行会、1997年、p.5。
[14] 海保嶺夫「和人地権力の形成:渡党の性格をめぐって」加藤・北島・深谷『幕藩制国家と異域・異国』校倉書房、1989年、p.49以下。小川正人『近代アイヌ教育制度史研究』北海道大学図書刊行会、1997年、p.5。
[15] 児島恭子『アイヌ民族史の研究:蝦夷・アイヌ観の歴史的変遷』吉川弘文館、2003年、榎森進・小口雅史・澤登寛聡編『エミシ・エゾ・アイヌ:アイヌ文化の成立と変容―交易と交流を中心として 上』岩田書院、2008年。
[16] 小林よしのり「ゴーマニズム宣言extra 日本国民としてのアイヌ」『わしズム』Vol. 28、小学館、2008年、p.28。
[17] 小林よしのり「ゴーマニズム宣言extra 日本国民としてのアイヌ」『わしズム』Vol. 28、小学館、2008年、p.44。
[18] 小林よしのり「ゴーマニズム宣言extra 日本国民としてのアイヌ」『わしズム』Vol. 28、小学館、2008年、p.19。
[19] Richard Siddle,"Beginning to walk for ourselves: The emergence of the Ainu nation”in   Race, Resistance and the Ainu of Japan, Routledge, 1996, pp. 171-189, p. 171.
[20] 香山リカ・小林よしのり『対決対談!「アイヌ論争」とヘイトスピーチ』創出版、2015年、p.13-14。
[21] 香山リカ・小林よしのり『対決対談!「アイヌ論争」とヘイトスピーチ』創出版、2015年、p.61。
[22] http://yoshinori-kobayashi.com/6736/
[23] 20150202のりこえねっとTV「ヘイトスピーチとは何か」野間易通(C.R.A.C.)を参照。https://www.youtube.com/watch?v=0AKnGkY1nCs

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